成長と繁栄の経営哲学

日本において、世界最初にして、最大のマネジメントを成功させた人物が70年前に存在していた!

その人物とは、日本資本主義の父とされる渋沢栄一先生と日本の商業道徳を体系化した鮎川義介先生です。
渋沢栄一先生は日本銀行をはじめとして、約500社の経営にかかわりました。また、未来を創造する力を持っていた
鮎川義介先生は、自身が体系化した事業哲学を実践し、日本産業を中心として約160社を育成し、三井、三菱、住友をも凌ぐ、
日産コンツェルンを形成しました。

鮎川事業哲学が体系化された経緯

歴史で「士農工商」と学んだように、明治時代まで商人は下位の身分で、しかも悪徳イメージが強く、
優秀な人材が少なかった。

そこで、日本資本主義の父とされる「渋沢栄一」先生は、高いモラルと見識の向上により、近代的産業社会の
担い手を育成するために、『道徳経済合一論』をもとに、商人ではなく、“実業家”という新しい身分を確立しました。

実業家の資質は、個人の経歴や人脈、識見やビジョンも大切ですが、何よりも重要なのが社会から信用される“人格”です。

しかし、武士道や道徳が残っていた明治時代、国立大学生の仕官先は公的機関に限られ、私的な商業は軽視されて
人格者が集まりませんでした。

そうした社会風土のなかでも、「株式会社」や「法人」は、国家と国民を富ませる公器と考えていた賢人がいました。

そこで、教育により高い理念を持つ人材を育成するために、福沢諭吉氏の慶応義塾や渋沢栄一先生の東京高等商業学校、
後の一橋大學が創設されたのです。

渋沢栄一先生が力を注いだ一橋大學の理念は、経済学の基礎である古代ギリシャの宗教家による『ヘルメス』理論です。

渋沢栄一先生を大蔵省で抜擢し、グラバー氏に最高位の勲章を授与したのが、当時、大蔵卿の井上馨氏です。 
井上氏は、明治維新の時代、坂本竜馬が活躍した頃、長州藩において盟友、高杉晋作と並ぶ改革派の急先鋒でした。

鮎川義介氏が青年の頃、叔父にあたる井上馨氏に会い、将来なりたい職種を聞かれた時、当時の風潮である「軍人」と
答えたところ、一喝されました。

そして、欧米列強によるアジアおよび世界全域の植民地化を防ぐため、また、白人優先主義による有色人種への支配を
止めるために、商工業の発展に寄与するようにアドバイスを受けたのです。

その後、鮎川義介先生は、日本自由主義経済の理念を再構築して新たに『真理の王道』と呼ばれる事業哲学を確立して、
日本の産業の発展に貢献しました。

こうして守られてきた日本の商業道徳を集大成した鮎川先生に、社会主義学派の総帥である大内兵衛東大名誉教授から、
“真の理想主義者であり、公的な心持は、崇高というよりほかに形容のしようがない”と賛辞が送られたのです。

井上、福沢、渋沢、鮎川先生方に共通している概念は、良心に従い経済を発展させることであり、端的に言うと、
「嘘をつかない至誠」と「公的繁栄のための私財の使い方」です。

渋沢先生の教えでは、実業家は誠実で、神仏に誓って“嘘をつかぬ人格者”でなければならないとしています。

鮎川先生の『道徳経済一元論』では、“嘘をつかない誠意ある姿勢”を第一として、「良心は信用の守り本尊であり、信用は成功の母」と教えています。

誠実とは、偽りなき真実の言葉は成就されるという意味です。

無私奉公の精神 「己を空しうすることが、人の幾代かを要すると思われる大事業をもよく一代で成し遂げられる」

鮎川先生の事業哲学がユナイテッドインテリジェンス社が提供するサービスの根幹となっています。

渋沢栄一先生の実業界における主な業績:

官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、
以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。

第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、
秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、
その数は500以上とされている。

鮎川義介先生の実業界における主な業績:

1937年日本産業を中心に、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、日本ビクター、日本油脂、日本水産など
141社に10万の株主を集め、12万の従業員を雇用することができ、スケールでは三井、三菱を抜いて、
当時最大の日産コンツェルンを形成している。
その他、日本テレビ、中小企業助成銀行(ベンチャーキャピタル)、現在の道路公団、帝国石油、石油資源開発、
博報堂、東京ヒルトンホテル等にかかわっている。
また、井上育英会、貝島育英会、振武育英会、帝石奨学会、政党大学、観学院後援会などに就任して、
日本の将来を担う、優れた人材の育成のために援助を惜しまなかった。